会社への感謝の手紙。社員第1号、ベンチャー辞めます。

新年度が始まりましたね。

新しい生活が始まる方も多いと思います。

かく言うぼくも会社を退職します。

社員第1号として7年と2ヶ月を働かさせてもらった、ベンチャー企業を退社することになりました。

今思うと小学校6年間より長い期間で、人生で1番長く所属したとと思うと感慨深くなります。

目次

会社とは

株式会社のはじまり

世界で初めての株式会社はオランダの「東インド会社」です。

1600年代、海を渡ることは大きなビジネスチャンスでしたが、その分リスクも多く、雇用や船の維持費はもちろん、遭難や強盗のリスクも大きいものでした。

そこで出資者を募り、その出資額に応じて、航海で得た利益を分配する方法が生み出されました。これが現在の株式の原型になります。

ちなみに日本で最初の株式会社は坂本龍馬が興した亀山社中です。今でもその家屋が長崎に残っています。

オールを漕いだ7年間

そして、ぼくが勤めていた会社も株式会社でした。もちろん未上場ですが、地方の社会問題を解決していくため、多くの出資者を集め、その想いを乗せて港を出発しました。 最初は社長が1人、船のオールを漕いでいました。

そこにぼくが漕ぎ手として加わることになります。

そして、会社としては夢半ばの状況で、7年間漕いできたオールを置かせてもらうことになりました。

まず、それを許してくれた社長やスタッフに心から感謝を伝えたいです。

出会い

ぼくはこの仕事がしたいと、仕事の内容で決めたわけではなく、社長という人で決めました。パワーがありすごい魅力的な人で、この人となら何かできるかもしれない、というそんな漠然としたところから始まりました。

社長との出会いはフィリピンでした。

20歳のとき、知り合いだった大学の教授から誘われて、その大学のカリキュラムにあった、フィリピンスタディツアーにオブザーバーとして参加したのがきっかけでした。

当時のぼくはいろいろなことに興味を持ち、イベントをしたり、資格取得したり、友達デザイン活動のようなことをしていましたが、どこにも気持ちを入れきれず、中途半端で悶々としていました。

そんな時にスタディツアーに参加して、社長に出会います。

印象はオーラがあると言うか、他人を惹きつける人でした。

入社が決まったのは日本に帰国後、飲みの席でです。

ぼく「今、海外に住もうかどこかに就職しようか考えているんです」

社長「そしたら、うちに来るかえ?」

ぼく「行きます」

こんな風に決まりました。

最初はバイトか、インターンか、短期か長期かの話もしないまま、しばらく経った頃、社長から仕事内容と給料が書かれたFBメッセージが届きました。

ぼく「あ、これ就職したんじゃね?」

という感じで始まりでした。

入社の目的

ぼくが入社を決めた目的は大きく2つあります。

  1. 独りでも生きれる力を身につけること
  2. 継続的に物事を続けること

この2つです。

生きる力

21歳のぼくは、というか周りの同世代では、将来どうなるのだろう?日本大丈夫か?という漠然とした不安が渦巻いていました。そこで何か自分で自立できるようにならなければと思い、いろいろ挑戦できそうな会社に飛び込んで、その力を身につけようと思いました。

実際にその力がついたのどうか?

正直あまり自信がないです。

後述しますが、ぼくは受け身でした。表面では主体的ではありましたが、根底には他人の動きありきの自分がいて、そのことはぼくの中でまだ蠢いています。

続ける力

7年間という期間、この会社に身を置けたことは自分にとって糧になることばかりでした。

正直しんどいことが大半で、けどそこを乗り越えていくパワーがいつも湧いてくる。それは社長という人がいたからでした。

社長はどんなときも諦めず、やり抜くことを自らの行動で示してくれました。

会社という航海を行う中、いろいろな人が乗船し、いろいろな人が降りていきました。

船底に穴が空いていたり、逆流の時も、致命的に思われる破損も幾度となく乗り越えてきました。

そんな中でも1人、皆んなを鼓舞し、最前線で闘う社長がいました。

この人でなかったらぼくは早々にこの船を降りていたと思います。

ぼくに無かった「とことんやり切る姿勢」を見せてくれました。

軌跡

1、2年目

ぼくの入社前の事業はあまり詳しくはないですが、入社はちょうどその事業が終わるようなタイミングだったように思います。

なので最初の2年くらいは、お金を生むような事業がほぼなく、社長の鞄持ちでいろいろ人に会いにいき、話を聞き、この会社の目的や、やろうとしていることを理解するところから始まりました。

大枠として会社のプロジェクトがあり、その中でいろいろ事業を模索していた時期でした。

また、ぼく以外にインターン生が1人来ることになり、2人で共同生活をしながら、炭窯を作ったり、関係会社の手伝いや、農産物をコンビニの前で売ったり、学生をつれて来て体験型学習をしたり、そんなことをしていました。

産業の川上から変えていこうという目的のもと、肥料作りが始まったのもこの頃です。

魚の内臓や頭を肥料にするべく、魚の残渣の山との格闘の日々でした。

それから初めて商品化でき、袋詰めされた肥料を見たとき、泣きそうになったのを覚えています。1つの物を作るのは大変だった。

3〜5年目

そして、肥料作りの実証の目的から農業が始まります。ぼくが主な作業員なので当時新しく入社していた同僚と、素人でありながら、先輩農家に作り方や天候のことを聞き周り、計画、実行という流れで始まりました。

いざ始まってみると、計画とは机上の空論、あっという間に予想が吹っ飛びました。何もうまくいかない。全然思ったようにできない、作業が後手後手になり、二度手間、三度手間に終われる日々でした。

プロに力も借りたり、何人かのインターン生も来てくれました。そしてなんとか事業の輪郭が見えてきた時期でもありました。

6、7年目

社員も減ったり、増えたりしながら徐々に形になってきました。農業からの派生で畜産も始まり、今の事業の芽が出てきた時期です。ただ、現場を任されていながら素人気質というのが自分の中でぬぐいきれず、会社や社長には迷惑をかけてばっかりだったように思います。

それでも次の世代を育てるために、じっと我慢して仕事を任せてくれた会社には本当に感謝しています。同じ立場ならそんなことはできるかどうか。

しかし、その我慢、ぶれない軸がこの会社にあったからこそ貫けた壁があったのだと感じました。

売上や物がほぼゼロの状態から関われたこと、ゼロからイチを創り出すエネルギーを身をもって体験できたことは、素晴らしい環境でした。この上ない環境に身を置けていたんだと改めて思います。

7年目、やっと自分の中で1つ形になったかと感じていました。もちろん、客観的に見るとまだまだ全然できていない部分ばかりです、もっと上を目指せますし、もっと努力できる余地はあります。しかし船を降りる(退社)という選択を選ぶことにしました。

自分を知る

この7年目は自分を理解するということを意識した年でもありました。

自分の何が得意なのか何が苦手なのか?自分の行動にはどういう傾向があるのか?

前述しましたが、ぼくは受け身なところがあり、まだ今もあるのですが、問題の原因を他人に見出し、そこを攻めている自分、あとで悔やむことがほとんどでした。

そんなときプライベートな時間に好きなことに没頭する自分に気づきました。

“これは、まずい!”

と、仕事に対しての取り組みの甘さにやっと気づいたときでした。書いてて情けなくなるのですが、ぼくは何事にも中途半端でした。なので再現性がある努力をしてきたかと問われれば自信がありません。

ここで、この会社で8年目を必死にその努力に取り組むという選択肢もありましたが、それをすると早々に力尽きることが目に見えてしまいました、会社にも自分にも嘘をつくことになるだろうと。

“引き際だ”

そして、辞めることにしました。

下船

船を降りる(会社を辞める)ことを社長に伝えるのが本当に辛かった。期待を裏切るようで、今までのことを仇で返すようで。

けど社長はグッと堪えて送り出してくれました。その姿勢は、今思い出しても込み上げるものがあります。

ごめんなさい、そして、ありがとうございました。

ただ、この退社はまだ陸地に着いていない状態で、小舟で、いや浮き輪で大海原に飛び込むような感じだなと、ぼく自身感じています。

自分の目指す陸地もまだ目に見えていません。

しかし、大海原にポツンという他人のせいにできない環境になることで見えるものがあると思っています。

陸地は見えませんが、しばらくは自分の本能のままに泳いでみます。

泳ぎには自身はないですが、泳がなければ死んでしまいます。

その環境で自分はどう動くのか、今はそれだけしかないです。

けど正直いうと期待より不安が多いです。

その不安がどうぼくを動かしてくれるのか、それが今の楽しみでもあります。

最後に

この記事を書いてて思いついた短歌で締めたいと思います。

え?

 

短歌??

わかります、その反応。

まーしかし、思いついたのだからしょうがない。

こうしてオヤジへとまた一歩近づくのでした。

では、一首、

ベンチャーを、辞めることこそ、アドベンチャー

航海しても、後悔しない

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